
こんにちは,
フーディニです。
こちらは僕の自己紹介記事になってます。
もしあなたが今
・このままの人生でいいんだろうか?
・もっと金銭的にも時間的にも自由に、もっと熱く生きたい。
・でも何をどう変えたらいいかわからない。
そんなふうに、心のどこかで燻っているとしたら
きっとこの先の話は
あなたの力になれるかもしれません。
僕もかつては、同じように悩みながら生きていました。
平凡な家庭に生まれ
何度も挫折を味わい
もがきながら海外に渡り
そして今、40手前にしてビジネスに挑戦して
人生を変えようとしています。
この自己紹介では、
✓なぜ本業の『CG』ではなく、情報発信ビジネスという道で「起業」することを選んだのか?
✓どのような経験をして、どのような思いでこの活動をするに至ったのか?
✓情報発信ビジネスというものを通して将来的に何をやっていきたいのか?
そんな、僕フーディニという人間の
“すべて”を、正直にお話ししています。
僕の歩んできた道は、決してスマートでも、特別でもないです。
嫌になるぐらい泥臭い道です。
だけど、
「努力すれば未来は変わる」
「誰だって、遅すぎるなんてことはない」
そんなことを、あなたに少しでも
感じてもらえたら嬉しいです。
それでは、僕の物語をお話しさせてください。
・ ・ ・
・ ・ ・
僕は今カナダに住んでいます。
本業はハリウッド映画のCGを作る仕事です。
今現在は少し小さめスタジオでのんびりと
仕事をしていますが、15年間で大手を4社ほど
渡り歩きました。
一時期はあの有名なルーカスフィルムで
働いている時期もありました。
(スターウォーズのスタジオです)
マーベル映画や大きな映画に軽く30以上は
参加してきたと思います。
僕個人は現在一人身です。
良くも悪くも自由の身です。
そんな僕がビジネスを始めたのは40手前です。
正直遅いと思う人も多いかもです。
なんで今さら?と思うかも。
でも「思い立ったらやらないと気が済まない!」
というたちなんですよね。
なので、本業のかたわら始めました。
その副業で、まったくのビジネス経験ゼロの状態から
4か月で80万円ほどマネタイズし、今現在は100万円、
さらに大きな成果が見えてきている状態です。
まだまだ自由な
時間は多くないですが
毎地に新しい知識を学び、挑戦するのは
めちゃくちゃ楽しいです。
僕が始めて海外に挑戦した
あのドキドキとワクワクが再び
って感じがする毎日です。
これからももっと成長して
多くの人との出会いがあるんだろうなと楽しみです。
今では人と話せば羨ましがられたりもする僕ですが
決してすごい人間ではなく、頭もいいわけではないです。
✓中学では行ける高校がないと言われ
✓Fラン大に行ったはいいものの就活は全滅
✓日本での就職後もボコボコに怒られる毎日
3.11の後逃げるようにして海外にでて
たまたま運が重なって
今の仕事をしてるわけです。
カナダに渡ったあと11年間帰国しない間に
病気になり1年間まるまる休業することになったり
父親を亡くし死に目にあえなかったり
勤めていた会社の倒産、現地からの撤退で契約終了。
ストで業界不振。契約がもらえない日々。
など、いろいろな事を経験しました。
そういった経験を通して
「お金や自由な時間の重要性」
を心から感じてきました。
結果、この年で僕は自分でビジネスに挑戦する道をえらびました。
そしてフーディニが誕生しました。
少しずつ金銭的な自由
人とのつながりなど
求めてたものが手に入ってきている途中です。
そんな僕の物語です。
長文にはなりますが、
読んでくれた方からは、
「そのような熱い思いで活動されてると知って感動しました!」
というお言葉をいただけた内容ですので、
ぜひ、最後まで読んでみてください。
幼少期~高校時代
僕は東京の23区外の片田舎
双子の兄として生まれます。
たったの17分早く生まれただけで
兄をやる羽目になりました。
不思議なもので
「お兄ちゃん」と言われて育てられると
兄としてふるまわなければという
意識になってくる。
双子なので、小さいころから常に弟と比べられる
幼少期を過ごしていました。
ぶっちゃけ弟は僕よりも背が高く
容姿も良くて、運動神経もバツグン。
ディズニーランドに家族で行けば弟は、
「はい、お姉ちゃんにはこれね」
とか言われ僕はと言えば、
「じゃあ、弟君にはこれね」
とか言われてました。
もう屈辱でしかないですよね。
小学生時代のあるバレンタインの日
家にとある女の子が来て僕が玄関先に出ると
「はい、これ。。。〇〇君(弟)にチョコ渡しておいてね!」
とか言われて「はぁ。。。」って。
全くモテなかった。
でも弟は逆にめちゃくちゃ人気者で。
小学校中学校と地元でサッカーを習っていたのですが、
弟は常にレギュラー、僕は万年ベンチウォーマー。
中学では弟は他の部活の助っ人に呼ばれ、
陸上部、水泳部の大会に出ながらサッカー部でも活躍してました。
とにかく、弟に勝てるとこ一個も
ないなーって思ってましたね。
この時からめちゃくちゃコンプレックス感じてたと思います。
どっかで自分も認められたいとか
何とかして注目されたいとか
ずっと感じてたと思います。
それでも自分なりにやりたいことを見つけて
めちゃくちゃマイペース
コツコツゲームを楽しんだり自分の世界に
没頭しながら生きていました。
・ ・ ・
・ ・ ・
中学校ぐらいからは
徐々に我が家は崩壊に向かっていきます。
原因は双子の弟。
中学に上がったころからいわゆる不良になった弟は
学校もろくにいかずに、タバコ、ケンカ、万引き
とにかく荒れに荒れてました。
両親はそれに疲弊しきってましたが。
それに加えて父親はある時から会社をクビになり
家にずっと引きこもってしまうようになってました。
中学生の僕からしたらどうしようもない。
なにもできないけど
母親はどんどん追い詰められていく。
そんな中で僕がもし壊れてしまったら
この家庭も壊れてしまうという
静かなプレッシャーとずっと戦ってたと思います。
ある日家に帰ると
僕がずっと集めていた
ワンピースのマンガが20冊ぐらい
一気に無くなってました。
とうぜん弟を疑って声をかけてみる
「おい、俺のマンガ売った?」
「は、売ってるわけねーだろ!」
と顔面に強烈なパンチ。
当時毎日同学年の生徒とけんかしていた弟、
身体も小さい僕が勝てるわけもなく撤退。
そのあと母親にこの話をしてみるも、
「証拠がないんだから我慢しなさい」
と言われてしまえばもうできることもないです。
当時は悔しいという思いよりも、
なんでまっとうに生きている
自分の意見が認められないのか?
という疑問が強かったと思います。
こういったゆがんだ家庭環境にいた僕は
のちに何気なく受けたウカウンセリングで
「複雑性PTSD」という名前を知りました。
✓人間関係がうまくない。
✓自己開示が異常にへた。
✓人の顔色を気にしてしまう。
この辺の生きづらさは若い頃に作られてしまったと
だいぶあとになって、海外に出た後に知りました。
僕はずっとどこかで
こういう自分を変えたかったんだと思います。
誰かに認められたかった。。。
誰かに貢献したかった。。。
そう思って生きてきました。
中学時代は、家庭環境もあって
学校の勉強をおろそかにし続けた結果三者面談では
「このままでは行ける高校がないですね」
と言われてしまいます。
あせった母親は僕を個別指導の塾にいれ
僕はまったく勉強ができないところから
母親のためと思って必死に毎日通い勉強した。
結果、地域で下から4番目の高校に
なんとか合格することができました。
めちゃくちゃ嬉しかったですよね。
「あぁ、ちゃんとコツコツ努力すれば成果ってでるんだ」
そう思えた瞬間です。
人からちゃんと認められた瞬間。
自分の成功で人が喜んでくれる。
心からそれを感じられた瞬間でした。
僕はずっと誰かに認められたかった。
・ ・ ・
・ ・ ・
高校にあがると家庭はより殺伐としてきます。
家に引きこもりっぱなしの父親。
さらに悪化した弟。
それを一手に引き受けて板挟みの母親。
そのバランスを一生懸命にとろうとする僕、です。
僕はかなりまっとうに高校生活を過ごしてました。
バレーボール部に所属し、軽音楽部もやりながら
ひたすら過程では無難にやり過ごし
母親に負担を与えないように過ごしました。
弟は高校を3回やめ、時には警察にお世話になり
家では父親と殴り合うこともありました。
僕は一度弟に包丁で刺されかけたことがあります。
母親が「もうやめて!」と泣きながら仲裁にはいり
大事にはいたりませんでしたが
当時はあいかわらず家庭は大荒れでした。
結果、僕の高校卒業間際に我が家は空中分解し
両親は離婚をすることを決めました。
そして弟は父親が、僕は母親が引き取り
別々の暮らしがはじまりました。
僕は内心ホッとし、母親もかなりメンタルが
安定していたと思います。
ちなみに母親は家庭を管理しながら
自分は保険業界の大手企業で定年まで勤め上げています。
男尊女卑の時代に大手企業で勤め上げ
双子を育てながら、父親のメンタルダウン後も
ほとんど一人で住宅ローンを完済しました。
僕が尊敬する人物をきかれたら
間違いなく母の名前をだします。
僕の人生に影響を与えた母の存在
ちょっとここで少し僕の母親の話。
僕の人生に多大なる影響を
与えたのは間違いなく母だからです。
なのでいったんここで少し語っておきたいと思います。
なんせ僕のこの諦めだけは
以上に悪いクソ真面目な性格も
日本を離れて15年以上たつ海外志向の考え方も
全部母から来てると言えるからです。
女性活躍なんてみじんも叫ばれていない、
バブル崩壊後の日本で
大手保険会社の本社勤務の女性OLとして
イクメンなんて言葉もない時代にフルタイムで働き続け
都内で早期定年退職まで勤め上げました。
退職後、突然知り合いのつてでアフリカの
ゴリラツアーの会社で働くと言いだし
1年ほどウガンダにも住んでいました。
また、
ほかにも、幼少期の双子二人をネパールに連れ出し
シェルパを何人も雇って大人もしんどくて
倒れるような山をガンガン登らせてみたり。
突然サイパンに連れていかれて
ダイビングのライセンスを取らされたり。
僕の海外留学も心よく許してくれました。
最近では毎年のように山登りに行ったり
モンゴルで馬に乗り大自然でキャンプしながら
何日も回るツアーに参加してみたり。
まぁまぁぶっとんだオカンですよね。笑
なので尊敬する人間はうちのおかんです!
と自信を持って言えます。
それぐらい心から尊敬しています。
見た目は普通の小さいおばちゃん
いや、もうおばあちゃんか…
なんですけどね。
両親が離婚して我が家がバラバラになるまで
ほんとうに家族のために尽くしてきたと思います。
そんな母に常々言われていたことは。
「他人に人生を預けてはいけない」
「人のために真面目に生きなさい」
という事でした。
自分自身で物事を決め。
人のためになるようにまっとうに生きなさいと
ずっと言われて育てられてきました。
それを愚直に守り続けて生きてきたのが僕です。
それは今も全く変わってないと思います。
認められたいという思いとともに
人のため、誰かのためになることをしたい。
そういう思いがずっと強かったと思います。
日本で年末に1週間ブラック企業に泊まりっぱなしで
逃げるようにしてタクシーを飛ばして実家に帰った時も
11年間日本に帰らずカナダで好きにやっていた時も
実家に帰ればうるさいことを言うことなく
いつでも暖かく帰りを喜んでくれた母です。
そんな、僕という人間の
基盤を作ってくれた母です。
その母に、いつか思いっきり恩返ししたいと
思ってたりします。
ハリウッド映画のクレジットもらえたよ、とか
この映画やったんだよ、っていうとめちゃくちゃよろこんでくれるんですが
もっともっと、お金を稼いで返したいと思っています。
そのためにももっともっと学び
学びを還元して人に感謝されて
おかんに胸を張って自慢しにいきたいんです。
ちょっと恥ずかしいですが
おかんの教えが間違ってなかったよと
本気で自慢の息子だと言われたいですね。
大学~海外留学~就活全滅
僕の話に戻ります。
我が家はバラバラに。僕は無事大学に進学します。
思いっきりFラン大学ですが。
まっとうな道を行くのが母のためと思ってました。
大学時代の半分はほとんど
個別塾の講師のバイトで
埋め尽くされてました。
その記憶しかないと言っていいと思います。
僕はもともと勉強が死ぬほどできなかったです。
でも受験のたびに勉強し、講師の方に支えられて
なんとか高校、大学と進学して来れました。
そして大学進学の段階で僕を担当していた講師の方が
「お前も塾講師やらないか?塾講師は頭のいい人間も必要だけど
お前みたいにできない人の気持ちがわかってる講師も必要なんだ」
と言われ、それならばと僕は個別塾の講師を始めます。
とにかく生徒のためと思って毎日自分でも勉強や
準備・リサーチを重ねて、できない生徒をフォローする
という事をやっていました。
✓まずは勉強の楽しさを知ってもらう。
✓まずは少しでいいから自分で努力する習慣をつける。
✓まずは結果を出す楽しさを知って欲しい。
そういう思いからでしたね。
全部僕自身が歩んで結果を出してきた道でした。
結果。
指名される生徒の数が増えすぎて
大学の夏休みは全て夏期講習のコマで潰れ
僕自身の大学生活を圧迫するまでになりました笑
めちゃくちゃ嬉しかったですね。
自分が価値提供して、それを受けて生徒も成長してくれる。
その姿を目の前で見て感謝もされる。
僕の求めてたものがあったと思いました。
さらに先生と生徒の配置を考えたり
マネジメント側の業務も担当していました。
結果、僕の大学生活はかなりそれ一色になってしまいました。
途中から僕は疑問を感じ始めました。
「確かにこの生活は楽しい。でも。。。このままだと
これだけで僕の大学生活は終わってしまう。。。それでいいの?」と。
そして2年を終えたころに
僕はオーストラリアへの
海外への留学を決意します。
なにかもっと新しい挑戦を
したくなってしまったからです。
とにかくもっと自分は成長したい。
そういう思いからでした。。
・ ・ ・
・ ・ ・
オーストラリア留学ではとにかく
色んな人と交流するという事を
目的に生活していました。
できるだけ面白そうなところには
顔を突っ込んでいく。人と話す。
という気持ちでした。
もともと大学でブレイクダンスをやっていたので
現地で仲良くなった友達と色んなところで
練習をしたりイベントをしたりしてました。
クラブののステージにあげられて踊らされたり
色んな経験をしましたね。
正直この時は人生で1番かなと思うぐらい
楽しかった記憶があります。
またいつか帰りたいなと思ったりもします。
そして、この時に僕の海外生活への
思いはとても強くなりました。
遊びながらもコツコツと英語の勉強だけは続け。
帰国間際に受けたTOEICでは870点取れた記憶があります。
中学の時は30点ぐらいしかとったことなかった僕が
ちゃんとやればできるんだなーと感じた瞬間です。
絶対に最後まであきらめない。
やっぱコツコツ努力、最強!と。
・ ・ ・
・ ・ ・
帰国後、3年からまた大学に戻りました。
海外留学を終えて、自信満々だった僕ですが。
そのあと大きな地獄を味わいます。
・
・
就活全滅、です。
「僕には特別な経験がある、雇われるはずだ!」
と意気揚々と就職活動してました。
多分50社ぐらいは余裕で受けたと思います。
結果。。。ぜんめつ。ゼロ。無職。
こんなことって。。。
いま考えれば当然です。
ビジネスを始めたいまなら何が悪いかわかります。
僕は”僕がやりたいこと”で就活してたんです。
ほんとは”相手が欲しいもの”を
アピールしなきゃいけなかったのに。
たとえば
「僕は海外留学してました、就職後はこんなことがしたいです!」
ではなく
「海外留学経験を生かして御社にこのようなメリットを与えられます!」
です。
当然ですよね。
スベってましたね思いっきり。
そして、その後しばらくは絶望です。
あぁ、自分は誰にも必要とされない人間なんだ。。。
おかんになんて言えばいいんだ。
悔しい。シンドイ。辛い。。。
ほんとに地獄でしたねあの時は。
そして
そのことをきっかけにまた僕は人生を大きく
方向を変えていく事になります。
専門学校~日本での就職
就職活動全滅した僕は
あらためて自分と向き合います。
「本当は何が好きなのか?」
「どんなことをやって生きていきたいのか?」
そしてCGの道を選びます。
なぜCGを選んだのか。それは…
✓海外に住むことができるスキルが手に入る
✓昔からコツコツと作業をするのが得意
✓自分で映像を作っていたので最先端に興味がある
とかですね。
今思えば、ビジネスで絶対に必要な
ゴールから考える”逆算思考”ができてましたね。
過去の自分グッジョブ!
そこから専門学校の費用200万ほどを先払いし
夕方から朝までは深夜のコンビニバイトをやりながら
昼間は専門学校でひたすらに作業をしていました。
この即断即決、先行投資の意識があったからこそ
時間を無駄にせず就活全滅後もある程度
巻き返せたんだろうなと今では思っています。
専門学校入った時も「僕は1番取ります!」
と宣言してました。ハッタリです。
ハッタリをかまし。先に投資してあとから
つじつまを合わせていく。
そういうことも大事だなと学びましたね。
専門学校入った後はとにかくひたすら仲間と
作業に明け暮れてました。
バイト以外はほとんど学校で寝てたし。
絶対に人生変えたいと思ってました。
多分僕。負けず嫌いなんですよね相当笑
身長小さいんですよ。161cmしかないです。
コンプレックスの塊です。
だからなんかどっかでひっくり返したい。
負けたくない、って思ってるんでしょうね。
それでも最初はいつも要領が悪いので苦労します。
専門学校でも、ずーーーーっと評価されませんでした。
最初の課題。中間課題。そのあともずっと。。。
・
・
そして卒業課題。
僕は表彰されます!!
最優秀賞ではなかったですが
ベスト〇〇賞という賞をいただき
結果、その年の卒業生の中で一番多く
企業からのオファーをいただけました。
確か20数枚の名刺をいただいたと思います。
めちゃくちゃ嬉しかったです。
それまでずっと苦しかったです。
ずっと競って競って毎日作業して。
でも結果が出ました。
ここでもそう。
コツコツ積みあげて最後の最後に勝てるんです。
これ、僕の”黄金勝ちパターン”です。
・ ・ ・
・ ・ ・
そのあと僕は日本で就職します。
業界で一番大きな企業に入ってCG屋さんとしての
キャリアをスタートさせました。
そこでの2年間は楽しくもあり
なかなかの地獄でもありでした。笑
ほとんど1週間会社に泊まって作業をし続けたり。
納期に間に合わなくありそうになって上司に
「もうお前そっから(ビルの4階)飛び降りろよ!」
ってほんきで言われたり。
TV・CM業界ってマジで闇深いんですよ。
僕はCMチームのCG屋だったので
そういうことが多かったですね。
作業は楽しいんですけど
納期とかクラインととか絡むと
そこはやはりビジネスなのでブラックになります。
僕は、入社時に
「3年でこの会社を辞めて、海外に挑戦します!」
と大見えを切ってました。
結果。2年で限界に達し、
会社を辞めました。
後悔は1ミリもなかったです。
僕の中ではやり切った感があったし。
お金もたまって、技術もポートフォリオもできたので
海外に挑戦する準備できたな、って。
3年が2年に早まっただけって感じでした。
そして、3.11が起きた直後の4月の頭に
あらたな挑戦をするために、僕は単身カナダに渡りました。
不安定な海外生活~病気~絶望
カナダに渡り、最初の3か月間で
知り合いのつてを頼ってハリウッド最大手の
VFX会社にインターンシップで入ることができました。
ほんとうに軌跡というしかない
運のよさでしたね。
ある時までは…
そっからしばらくは順風満帆でした。
でも、
海外生活が本当に楽しかったのは
最初の6か月ぐらいだったと思います。
ちょうど6か月ごろを境に
身体に異変が起き始めます。
なんかおでこが乾燥するなーと
思ってたんですが。
そこから炎症が始まり1ヶ月ほどで
一気に全身に広がり始めました。
そうです、アトピーです。
僕、赤ちゃんだった頃にアトピーだったんですよね。
それが母親の努力のおかげで
小学校に上がるころにはすっかりきれいになって
その時まで全く発症したことなかったんです。
今でこそ食事を改善し
運動したり睡眠に気を付けたりして
ほとんど目立つこともなくなりました。
ですが当時は、
日本でのむちゃくちゃな食事や生活
海外での新しい環境や生活のストレスで
一気に爆発して全身がボロボロになりました。
そこから地獄の10年ぐらいが始まります。
一番ひどかった時は仕事を少し休んだり
それでも頑張って仕事は続けてました。
たぶん、この時が人生で一番つらかった
10年だと思います。ほとんど記憶のない
失われた10年です。
海外で一人、
やっとやりたい世界で
やりたい仕事につけて
これからだぞって時でした。
自分がやりたいことも
何をすればいいのかも
どこまでいけばいいのかも
全部わかってたのに、何もできない。。。
そんな悔しさでいっぱいでした。
仲の良い友達も全員遠ざけて
家じゅうの鏡を捨てました。
全身真っ赤で皮がボロボロに剥けて。
生きてるのが不思議なくらいでした。
ほんとに当時酷かったです。
僕、あまりこの話をしてません。
未だに自分で受け入れられてないっていうか
当時を思い出すとしんど過ぎて苦しくなります。
その後かなりよくなって
楽しく生きているので
今なら笑って話せるんですけどね。笑
当時は地獄でしたね。
とことん自信を無くしましたし、
「もう生きててもしょうがない。。。」
って1000回は思ったと思います。
そのまま日本にも帰れず。。
一人でずっと戦ってましたね。
それがきっかけで鬱になって。
1年ほど仕事場からも離れてました。
休んでる間に働いていた会社はカナダから撤退して
戻る場所もなくなって。キャリアも止まってしまって。
その時にお金の大事さが身に染みてわかりました。
生きてるとあるんですよね。
ふとした瞬間に身体を壊すとか。
だから、本業以外の収入の柱とか
絶対に必要だなって感じました。
どんなにいいスキルを持っていても
働けなくなった瞬間に終わりです。
1年間カナダの失業保険で食い繋いでましたが
やっぱり収入がなくなる恐怖は半端ないです。
家族とか守るものがあったらなおさらです。
あんなにしんどくて悔しい思いは多分
二度とないだろうなって思います。
そっからです。
めちゃくちゃ健康に気をつけて
あまり無茶をしなくなりました。
1日1食で、運動も良くして
継続的に結果出したり、仕事を続けるためにも
健康とお金と時間の自由。めちゃくちゃ大事!
心からそう思います。
・ ・ ・
・ ・ ・
あと
僕、カナダから日本に帰らなかった11年間で
親父を亡くしてるんです。
普通は男の子にとって大きいじゃないですが
親父の存在って。
乗り超えていくべき存在というか。
最後に倒して大人になってくと言うか。
そういう巨大で強いもの。
でも
正直、僕の中で親父の存在って
それほど大きくないんです。
小さい頃も遊んでもらった記憶とか
どっかに連れてってもらった記憶も
あまりないんですよね。
なんかおかんとケンカしてるとか
弟と殴り合ってるとか、そういうのばっかで。
そういえば日本で2番目に高い北岳に
連れてかれたっけなー?とか。
その程度。ほんとに記憶がない。。。
仕事もなにしてるかとか
趣味がなにかとか、何考えてるとか
全然知らなくて。
いっつもヨレヨレのオレンジ色のフリース
着てタバコ吸ってんなーっていう記憶しかない。
カッコいい姿なんて見たことない。
マジで。
理想の親父とは程遠い存在。
あぁはなってはいかんぞって思ってました。
前述したとおり。
元々両親は早い段階で離婚してます。
親父と母親は別々に暮らしてたし。
その後も1年に1回顔を合わすかどうか程度。
僕も高校から大学、海外留学、専門学校、就職と
ずっと忙しくしてたのであまり気にかけてませんでした。
カナダに来てからもほとんど連絡とってなかったんですよ。
それでもばーちゃんが亡くなった時に
急にばーちゃんの写真と戒名とか
お菓子とかラーメンとか
雑に段ボールに詰めて送ってきたんです。
相変わらず僕の事もさんづけで
「○○さんお元気ですか?
身体に気を付けてください。
日本のもの恋しいと思うので送ります。」
ぶっちゃけカナダって日本食結構買えるんです。
日系や中華系のスーパーとかもあるし
でもわざわざお金もないはずなのに
高い国際郵便で送ってきて。
相変わらず不器用な親父だなって
感謝の言葉もそこそこに、終わってました。
そっから全然連絡とることもなく。
僕も病気やなんだで大変だったんです。
自分の仕事の事で手一杯っていうか。
なんとか結果残さないとって必死に生活してました。
で、
ある日突然おかんからLINEが来て
夜12前だったと思います。
歯磨きして寝ようかなーなんて。
思ってたら
「〇〇さん(親父)が部屋で亡くなって発見されたみたいです。
これから警察が来て司法解剖されるとのことです」
って。
「え?なんのこと?」
って一瞬混乱しました。
「〇〇さん?ん?だれ、え。。親父??
誰の??。。。ん、僕の親父??は??」
って。
理解するのに数分かかった気がします。
僕はそれを聞いたときに
長いことずっと話してなかったのに
さすがにショックで膝から崩れ落ちたんですよ。
軽くめまいして、なんか体の血の気が引いて。
そのまま部屋で一人ガクンって。。。
人ってひざから崩れるんですよ。
力抜けると。マジで。
僕がひざから崩れ落ちたのは人生で2回目。
中学生の時にワンピースのマンガを弟に売られて
それを確認しにいったら逆に殴られた時以来。
それ以来の膝カックン。
しばらく頭の中大パニック。
暗くなった部屋でそのまま
1人横になってしばらく考えてました。
そん時は以外に平気だったんですよ。
ビックリしたけど、事実を受け止めて。
んで、そっからすぐに司法解剖に回されて。
家で亡くなると、事件性を確かめるために
司法解剖で警察に引き取られるんですよ。
知らなかったんですけどね。
そんで、司法解剖の結果
「老衰」でなくなったという事がわかりました。
要は寿命です。60いくつだったんですけどね。
血管年齢が80なんぼで。弱りに弱って。
部屋で一人、寝てる間に苦しむことなく
静かに息を引き取ったようです、って。
そのあと部屋の写真も見せてもらったんですけど
ばーちゃん家の一室。8畳ほどの部屋で。
こぎれいにしてて。
余計なものもほとんどない。
2リットルの焼酎のボトルぐらいかな。
あー、お金もそんなにないし
きっとなんも楽しみもなかったのかなって。
たぶん
親父は鬱になってしまって、途中で
人生諦めてしまったんだと思います。
当時鬱なんて言葉もほとんど
知られてない頃だったんですけど。
僕も鬱経験してるんでわかるんですよ。
絶望感というか。
このまま生きてても
いいことなんて何もない。
希望が1ミリも見えない世界戦。
それがずっと続いてく恐怖とか
不毛感とかそういうの。
仕事もなく、実家に戻って
ほとんど家からもでないまま。
運動もせず、とりあえず酒飲んで。
一緒に住んでた妹さんとも
ほとんど話してなかったそうで
発見されるのに3日もかかってしまった。
そういうの全部想像したら
なんか猛烈に涙が止まらなくなりました。
「(なんだよ。親父。。。楽しいこととか、
燃えられることとか、一緒にバカ笑いできる仲間とか。。。
そういうのまったくなかったんだな。。。)」って
何やってんだよマジで。。。って。
ボロボロ一人部屋で泣いてました。
どっかでずっとそこにいると思ってたし。
いつか酒でも飲みにいけたらいいなとか
そんなことも漠然と思ってました。
強い親父ではないし、かっこいい親父ではないけど。
それでも僕が生まれたのは親父のおかげで
ここまでこれたのも親父。
カナダに来るときもそれとなく
声もかけてくれました。
そんな親父になんもしてあげられなかったなって。。。
息子としてなんもあげれなかったなって。。。
急に悔しくなって、悲しくなって。
自分がかっこ悪くて情けなくて。
ほんとは親父にも認められたかったのかもな
とか思いました。
今、
僕はちょうど人生を諦めてしまった
ぐらいのときの親父と同じ年齢になりました。
状況も全然違うし
住んでる国も仕事も
見えてる世界も全然違う
でも、
こっからでも遅くない
とにかく
人生を楽しんで
「親父の分も思いっきり生きてあげたいな」
って思ったんです。
もっと楽しんで、
かっこよく生きて、
天国の親父に認められようって。
そのあと、
11年ぶりに日本の実家に帰った時に
元々山岳部だった親父の山用のピッケルを
形見にもらってきました。
色んな遺品があったんですけど。
全部いらないからそのピッケルだけ欲しいって。
なんか一番親父らしいものが欲しいなって。
僕が一番カッコいい親父を想像できるのが
そのボロボロの木製のピッケルだったんですよね。
それをカナダに持ち帰って
今僕の部屋に飾ってあります。
いつかそれ持ってカナダのロッキー山脈
連れてってあげたいなって。
思ってたりします。
病気から復活~コンテンツビジネスとの出会い
結局、病気がよくなるまでに10ほどかかりました。
食事を変え、生活習慣を変え
最終的に1年間休職しました。
そして丸々1年の休職をへて
なんとか復活を果たしました。
フルタイムの仕事に戻って
色んな事に感謝できるようになりました。
普通に仕事ができる事
周りの友人たちとキャンプに行ったり
集まってバカ話をしたり。
それだけでもう楽しいなと。
それでもやはり不安は残ってました。
手に職があるとはいえ
実は割と不安定な業界です。
朝9時から6時まできっちり働いて
それが資産として積みあがってくわけでもない。
どこまでいっても時間の切り売りだよな、これ
って思い始めたんです。
実はハリウッド業界自体
大きなストライキがあったり
凄い不安定な時期でした。
大きな業界団体がもめて
たくさんのプロジェクトがストップ。
そのせいで
あちこちで何個も大きなスタジオが潰れたり
仕事が無くなって人を外に出してました。
ぼく自身もちょうど
病気や鬱を経験したこともあって
色々と考える時期でした。
「あれ、自分ずっと….このままでいいのかな?
このまま同じような事をして、不安もなく
楽しく生きていけるのかな?」
って思うようになりました。
朝から晩までパソコンの前で同じような
プロジェクトを毎回こなしては終わっていく。
「そんなことでほんとにいいの?」
この先の人生を考えたりしてました。
ちょうどその頃、関わっていた
大きなプロジェクトが終わり
契約もいったん終わったので
契約を更新せずに休みをとったんです。
その時関わっていたのが「ツイスターズ」という映画でした。
オリジナルは1996年にでたスティーブンスピルバーグ監督が
制作総指揮の映画。そのリメイク版という大作映画でした。
ほとんど週7残業で0時近くまでみんな仕事してました。
北米の職場にしてはありえないぐらい
みんな残って働いてましたね。
もともとスターウォーズのジョージルーカス監督が
作ったスタジオだったのでかなり歴史が古いんですよ。
ILM(アイエルエム)っていう会社です。
なので結構おじいちゃんというか
古い方も多くて、そういう方も同じように
遅くまで働いていたりして
0時近くなってもまだチャットが
ピコンピコンなってるなって。
「(あぁまだみんな働いてるんだ)」
「(僕の将来もこうなるのかな。。。)」
ってまた考えたり。
そのプロジェクトが終わった後
気持ちが少し疲れてしまっていたので
この際2~3ヵ月ぐらい休んでもいいかなと
2週間後のフライトチケットを予約して
気づいたらメキシコに飛び立ってました。
(カナダからメキシコは4時間ぐらい)
なんかとにかくボケーっとしたくなって。
メキシコではバックパックを背負って
ユースホステルを転々としながら
ほぼ1ヵ月間放浪してましたね。
いわゆるバックパッカーってやつです。
まさか40手前でこれやるとはって感じです。
初めてのメキシコはもうなんていうか
もうとにかくやられっぱなしで
熱中症で39度の熱になって
食べたものを上から下から全部だして
ホステルのベッドから2日間起きれなかったり。
国内線のフライトを間違えて
首都のメキシコシティに降りるはずが
最寄りの危険な街に夜中の0時近くに
降り立ってしまい、たまたま現地で知り合った
友人からインスタでメッセージが来て
「そこは危ないところだからタクシー拾うなよ
バスが何台も行方不明になってる場所だから」
と警告されたり。
英語も通じず、スペイン語も大して話せず。
知らない土地と知らない言語でマジで
久々にやられてましたね笑
英語が通じない場所で久々に
言語が通じない苦しさ大変さに
打ちのめされてました。
そんな旅の途中ずっと考えていたことは
将来への漠然とした不安と
今後の人生を惰性で過ごしていく
事への疑問でした。
「お前、マジでこのままでいいの?
残りの人生、もっと本気で生きなくていいの?」
って。
そう思うたびに亡くなった親父を思い出します。
諦めてしまって全力で生きれなかった親父と
ほんとはもっといろいろと話したかったなって。
もし僕がお金と時間に自由があれば
会いにも行けたし、助ける事もできたんじゃないかって。
他にも、
その頃ちょうど仲の良い友人夫婦に
子供が生まれたんですよね。
見た目は凄く幸せそうだったんです。
でも実際はカナダの物価の高さや
経済的な不安を抱える中で
同じように不安を抱えているという話をされました。
「仲のいい友人だし、なんとか助けてあげたいな」
とは思ったものの
今の僕では助けられない。
僕がCGを今から教えてあげることもできない….
ぼく自身は海外で生きていけるスキルや力はあるけれど
身近な人間を助ける力はないんだなって。
スターウォーズのフォースじゃないけど
マーベルヒーローズのスーパーパワーじゃないけど
そういうカッコいい力はないよなって。
凄く悔しい思いをしたのを覚えています。
僕にも人を助けられる知識や力があればなって。
また
ちょうどその頃、別の友人の奥さんが
個人留学エージェントとして独立起業し
ビジネスを順調に回しているのをみてたんです。
要は留学に来る生徒さんたちを相手に
学校を紹介したり。将来の相談に乗ったり
してたんですよね。
毎日いろんな生徒さんがオフィスを訪れて
お土産をもってきてくれるんです
「○○さん、ありがとうございます!」
「○○さんのおかげで学校決まりました!」
って感謝されたりしてました。
その後も関係が続いて
人生単位で関わってる生徒さんもいたり。
日本に帰って人生を進めた後に
戻ってきてまた感謝されてたり。
めちゃくちゃいいなってそういうの。
なんかすごく羨ましくなったんですよね。
人に何か直接価値を与えて
感謝される生活っていいなって。
なんか突然急に。笑
僕の仕事は直接のクライアントワークではないので
そういうことってないんですよね。
なので隣の芝は真っ青に見えたっていうか
正直映画のエンドロールのるより全然いいやん!
って感じてました。笑
作った映画が多くの人に届くのはステキだけど
でもお客さんが大衆過ぎて見えにくい。
僕に対して直接感謝をもらえるみたいな
事ってこの先もずっとないんだよなって
思ったんですよね。
あと、CGの世界ってやっぱり狭いというか。
人とのつながりも少ない世界です。
なんかそれも少し変えていきたいなって。。。
そんなことを思いつつ
メキシコ放浪1ヵ月放浪しながら考えてました。
・ ・ ・
・ ・ ・
メキシコから戻った後
仕事をさがしてたんですが
なかなか見つからず
不安を抱えながらも
ふとツイッター眺めてたんですよね。
そしたらなんか
「ネットで情報発信して稼げるよ」
みたいな発信をみかけて
「うわ!めちゃくちゃ怪しい。。。
そんな簡単に稼げるわけないよな」
って思いながらも
その人のYouTube何気なく聞いてみたんですよね。
そしたらなんていうか
あれ、なんかビジネスって楽しそう。。。
って思えてきて。
気づいたらその人の動画全部見てました。
何本ぐらいあったかな。
多分200本ぐらい。一気見。
もちろんセールスやマーケティングのプロなので
後から考えればビジネスを始めたい
って思うようにできてるんです。当然です。
内容はちゃんとしてました。
「簡単に楽に稼げるよ!」とかではなく
「ビジネスってこういうものだよ」
「ビジネスって面白いし成長できるよ」って。
僕自身も丁度なにか新しい
熱くなれるものを求めてました。
『ビジネスの知識を学びながらお金を稼いで
自分が成長もしながら人助けもできる』
すごくいいな!って思いましたね。
もうなんかこれじゃんって。
部屋で一人で静かにテンション上がってました。笑
そっから2週間後ぐらいにはもう
公式LINEからつながって、
その方とZOOMでお話ししてました。
200個ぐらいあるYouTube動画
毎日聞いてた方だったので
少し緊張しましたね。
YouTubeと違ってやさしい感じでした。
簡単にやるべき事や、オンラインコンサル
の内容を説明してくれて
「何かほかに聞きたいこととかあったら
何でも聞いてください」
って穏やかに言ってくれて。
強引にコンサルを売りつけるわけでもなく
「どうします?やりたいですか?」
って一言。
もう僕の中で腹は決まってましたね。
約60分のZOOM後は部屋で一人
どっと疲れて手に汗握りながら
この後の支払いの事を考えてました。
自分の力でビジネスを立ち上げて
会社や組織に頼らず自分の力だけで
お金を稼いで生きていく。
凄いあこがれというか
全く新しい領域、少し怖いけど
やってみたいと思いました。
たしかにお金を稼ぐことも魅力的
そして、お金や自由な時間も
絶対に必要だとは思いました。
でも、それ以上に
✓このまま惰性で進んでいく人生を変えたい
✓新しい世界でもっと面白いことに挑戦したい
✓身近な人を助けられる知識とスキルが欲しい
という思いが凄く強くなってました。
さらにもう一つ
僕が14年程海外に身を置いて
ずっと感じてきた一つの思いもありました。
ちょっと失礼かもしれないなって思いつつ
思い切っていってしまうんですが
『海外での日本人の存在感って、
なんか空気みたいで薄いよな』
っていう思いです。
ちょっと説明します。
北米に住んでいて日本人というのは
多くはないですが少なくもないんです。
でも
ビジネスでお金が流れる場所に
日本人が多くいるかと言われたら答えはNOです。
そういうところで出会うのは
ほとんどが中国の方です。
僕が購入したアパートの一室も
以前のオーナーさんは僕よりも若い
中国人の女の子でした。
多分30歳前後。
移民2世で親御さんがカナダに移民として移り住み
そのまま移民としてカナダで暮らしている人です。
それはある意味
凄いことなんですよね。
全く別の国で自分たちの
コミュニティを築きあげて拡大していく。
日本人は超絶苦手ですこれ。
チャイナタウンはあっても
コリアンタウンはあっても
ジャパニーズタウンってないんですよ。
でも日本人って実は
凄いということも知ってます。
僕が働いていた大手のハリウッド映画スタジオでは
何人も活躍している凄い日本人の方に会ってきました。
実際に僕があった一番優秀だったなと思う
スーパーバイザーの方も日本人でした。
世界中から来た人でできた各部署のチームを
全部一手にまとめて仕切ってる人でしたね。
だからなんていうか、
個人ベースだとめちゃくちゃ強い。
横の繋がりで知識や経験を共有し合ったり
協力し足ったりするのが苦手なだけなんですよね。
だから例えば僕がビジネスを覚えて
お金を稼ぐ手段や事業を拡大する
お手伝いができるようになったら
海外で活躍している日本人や
頑張ってるけどなかなか経済的に
苦労している留学生とか
そういう人たちを助けて
さらに日本人の海外での存在感を
もっともっと高められると思ったんです。
夢物語に聞こえるかもしれないけど
ビジネスって知識なんだなってわかった瞬間に
この思いズドンと強くなりました。
そういうのめちゃくちゃ
おもしろそうだなって。
これから日本国内の人口は
減少していくってことは
もうはっきりとわかっていて
だったら一人一人の能力を爆上げして
世界と戦っていくしか
ないんじゃないかなって。
そのためにWebマーケティングとか
ビジネスの知識があれば
普通に世界と戦っていける。
世界のプラットフォームの競争には
今のところ負けてしまっているけど
日本はまだまだ1億人以上の人口と
教育水準もインフラも整ってて
ポテンシャル自体は
とんでもなく高いと思ってます。
これ実現したいなって
本気で思ってます。
これが僕のビジネスを通して
実現したいことの最終目標。
最大の夢、ですかね。
ちょっと壮大過ぎますか?
でも
人生って一回です。
僕をここまで育ててくれた母親のためにも
思いっきり生きれなった親父のためにも
なんかもっと大きく
やりたい事やりまくって
思いっきり生きてみたいなって
思ったんですよね。
どうせみんなそのうち土にかえるなら
好きなように生きてみたほうが
いいでしょ?
新しい人生の目標とフーディニの活動
というわけでこれで最後です。
ながなが半生を語ってきましたが
ここまでお付き合いいただけた方は
マジもんのド変態ですね
褒めてます。
多分、ここの項目は今後
どんどん更新されていきます。
実際に僕はすでに4か月で80万円の
マネタイズを達成しました。
最初はnoteを10部売っただけです。
ほんとに1000円とかの収益です。
でもほんとにほんとの自分の力だけで稼いだ1000円。
会社で時間を切り売りしたわけではないお金。
僕の中ではめちゃくちゃ大きいです。
そっから少しずつ大きくして。
いったん80万円まできました。
まだまだ小さい実績です。
クライアントさんもできました。
今後は一緒にどんどん稼いでいく予定です。
それでもまだまだです。
1億2憶と稼ぐ化け物のような人たちがいる世界です。
でも、ビジネスって楽しいなって
自分の思いや考えが人に届くのは
めちゃくちゃいいなって思って活動を続けてます。
もし、
あの時ビジネスに出会ってなかったら
今もきっと将来に不安を抱えたまま
新しい目標もないまま悶々と日々を過ごしてました。
本業にしがみついて、会社にいた年配型のように
ずっと何十年も同じ業界と会社で働いていたと思います。
家でゲームしながらネットフリックスを見て
週末に友人と飲みに行って帰って寝る。
そんな平々凡々な生活だったと思います。
少なくとも今は違います。
毎日何かしらやることがあります。
追うべき数字を追って、人と関わって
どうやってビジネスを大きくしていくのか
考えながら生きています。
やることがない日なんてないです。
希望しかない。
たのしいしかない。
もっともっとやりたいことしかない。
そんな状況です。
大変なことも当然あります。
深夜まで作業してコンテンツ作ったり。
企画を打って色んな人と対面zoomでセールスしたり。
僕がはじめたきっかけ、
あの時zoomしてもらった時と
同じ状況にいます。
まだまだ学ぶことは多いですが。
どんどん力をつけて
多くの人を助けられたらいいな
って思ってますね。
・ ・ ・
・ ・ ・
てことで
僕は新しい人生のステージに入りました。
どこまでいけるかわかりません。
でも
とりあえずもう片足を
つっ込んでしまったので
多分引き返すことはないんだろうな、と。
というか知らずに生きてたら
そこそこ幸せだった世界を
知ってしまったんですから
こんなにおもしろい世界を知ってしまったら
もうそれを無視してくことは
できないんだろうなって。
だって多分これからの人生
・毎日同じように9-6時でパソコンに向かって仕事する
・適当にYouTubeやNetflix観てゲラゲラ笑って寝る
・いきたい場所があってもお金がなくていけない
・困ってる人がいても横目で見ながら助ける事も出来ない
こんな瞬間に
ぜったいにこのビジネスの事を思い出して
「(なんであの時本気出せなかったんだろう
本気出せてたら人生変わったのかもな。。。)」
なんて心の片隅で思い出しながら
変わらず生きてくことになると思うから。
なのでこれからの活動目標は
✓正しい知識を学び人を助けるため、
助けてくれた人にお何が壊死するために全力でお金を稼ぐ
✓身近な人を助けて僕の周りを豊かにする
✓いずれは海外での日本人の存在感を高める
そのために僕は全力で学び力をつけていく
そう感じています。
もうこれは僕の人生をかけたプロジェクトです。
東京の片田舎で生まれ
超絶凡人だった僕が
英語を学び、CGを学び海外挑戦し
それなりのところまでこれた努力を
同じようにやるだけです。
そしてこんどはその努力と知識を
僕のためではなく、誰かほかの人のために
使うだけです。
最後は天に腕を突き上げて
全力でやり切ったという思いで
人生を終えることが目標です。
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
僕のようにビジネス知識を学んで
人生を豊かにしたい
経済的にも自由になって
場所にも時間にも縛られずに生きていきたい!
グローバルな視点で僕と一緒に
日本を一緒に盛り上げていきたい!!
そんな熱い思いをもったかたは
ぜひLINEやTwitter、YouTubeでも
このブログでもいいのでぜひ
熱いメッセージや感想を送ってください。
なにか手助けできるかもしれないし
学びを提供できるかもしれないです。
ビジネスってほんと楽しいですよ。
自分でやってるって
生きてるなって感じします。
つらい時ももちろんあるけれど
やったらやった分返ってくるし。
自分の生きていく力が磨かれます。
それこそなんでも切れちゃうキレッキレの
ナイフを手に入れるようなもんですから笑
ではではあなたからの
熱いメッセージをおまちしてます!!